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[アキタ朝大学コミュニティ研究室]日本海に浮かぶ離島から(最終回)-秋元悠史

秋元悠史(プロフィール)
@kamioka



(前回の記事はコチラ)

11.コミュニティはどのように変化してきたか

昔、海士町では味噌や醤油も各家庭で作っていたそうだ(文字通りの手前味噌)。
商店のアクセスが悪かったときには、味噌や醤油は切れたら隣近所から借り、あとできちんとお返ししていたという。

海士町では今でも住民同士がすれ違えば挨拶や世間話が必ずといっていいほど交わされる。
しかし「挨拶しないと後ろ指を差される」という側面がある、と地元の漁師さんは仰っていた。
いわゆる「付き合い」というものが田舎には存在する。それは必要だからこそ生まれたものだ。
誰かの善意を頼っても、地域の共有スペースの清掃や草刈りなんてできない。だから、みんなでやる。

生活のリスクや地域の課題はみんなでシェアして解決する、というのが田舎の当たり前なのだ。
その分個人の時間や自由はある程度コミュニテイ運営に割かれることになる。
地域のコミュニティによって安全を獲得し、その代償として自由を支払う。そう見ることもできる。

一方、都会はどうだろうか。
お腹が減ったら、お金さえあればコンビニやファミレスで容易に食べ物にありつける。
地域の目を気にする必要もないから、自由気ままに生活できる。

他人の目を気にしなくて済む分、自由にしすぎると他人に迷惑がかかることになる。
それを防ぐために、国や自治体はルールを決める。生活者はそのルールに従う。
隣に誰が住んでいるかわからないけれど、法律があるからトラブルは起きないはず。
誰が作ったかわからない食べ物でも、衛生法をクリアしていれば食中毒にはならないはず。

コミュニティに自由を支払う必要もなく、安全はルールが保障してくれる。
僕みたいに「付き合い」が苦手な人間にとっては、都会暮らしは気楽でよいものだ。

ところが、安全であるはずの焼肉屋のユッケが大騒動となった。
安全だと言われていた原発が、大きすぎる問題を僕らに残すこととなった。

明文化されたルールが安全をまかなってくれている、という考えは幻想に過ぎない。
時代が進む毎に、僕らは一層そう思わずにいられなくなっている。
僕らの生活と安全・安心を脅かすリスクはますます増大している。

コミュニティに自由を奪われるのは嫌だ。
だけど都会の安全も今やそう簡単に信用できるものじゃない。

そんなジレンマの中で、少しずつ新しい考え方が世の中に浸透しつつある、と僕は感じている

ちなみに、海士町が昔ながらのコミュニティを維持できるのは物理的要因が大きいように思う。
外部との交流に制約があり、生活と仕事があまり分離されていない環境は全国的に見ても珍しい。
(もちろん古い歴史の中で培われた島民性もあるだろうけど)

12.21世紀を描くためのキーワードとコミュニティ

「持続可能性(Sustainability)」という言葉がある。

持続可能性(じぞくかのうせい、サステナビリティ、英: sustainability)は、人間活動、特に文明の利器を用いた活動が、将来にわたって持続できるかどうかを表す概念である。経済や社会など人間活動全般に用いられるが、特に環境問題やエネルギー問題について使用される。
(Wikipediaから引用)

20世紀は人類に多くの反省を残した。
物心ついたときにはバブルが崩壊していた若い世代は、ごく自然に新しい価値観へシフトしようとしているようにも見える。

田舎暮らしに憧れる人、地域コミュニティの温かさに魅入られた人は確実に増えている。
グリーンツーリズムや一次産業体験、農山漁村交流はいたるところで行われている。

人や自然と触れ合うことが、本能的に人間にとって喜びである、という認識が徐々に広まりつつある。
これまでわずらわしいとさえ考えられたことが、人間らしい尊い活動として捉えられるようになってきた。

安全をルール化したとしても、それが必ずしも安心とは限らない。
お金に換算できないもの、定量的に測れないものを無視してはならない。
そうした気付きが徐々に広まる流れの中で、コミュニティというものが注目を集めているのも頷ける。
(この場合、イメージされるコミュニティは「農村型」あるいは「地域」コミュニティだろう)

人と人とがつながることを「煩わしい」と取るか、「人間らしい」と取るか。
前者の場合、コミュニティに頼らずとも独力で安心を獲得するためのリテラシーと十分なお金を確保することが求められる。
後者の場合、人と関わることを厭わず、コミュニティの運営のために自分の時間を捧げなければならない。
(両者のバランスが大事なのは言うまでもないけれど)

それぞれの生き方にはそれなりの条件が求められる。社会に生きるというのは本質的にそういうことなのかもしれない。
逆に言えば、条件さえクリアすれば、一人ひとりがそれぞれのバランスを自由に決定できる時代になった、とも言える。
自分自身の生活や地域の運営を持続可能なものにするために、一人ひとりが取れる選択肢が増えてきている。

一方、「それなりの条件」をクリアできない人がいるのかどうか、も考えてみた方がいいと個人的には思っている。
現代社会の問題は、コミュニティの機能が弱体化している点と、リスクが増大している点にある。
コミュニティの機能を強化してリスクをみんなでシェアするか、一人でも生きていける力をつけてリスクに対抗するか。
それを時代が求めているとしたら、個人、コミュニティ、自治体、企業、国、それぞれがどのように対応していけば良いのか。
この議論において、「持続可能性」という言葉は、切っても切れないものになるだろう。

13.これから考えていきたいこと

ネタがつきてきたので、このあたりでまとめに入ろうと思う。

・WE LOVE AKITAという新しい参加型のコミュニティ
・海士町という昔ながらのコミュニティ

コミュニティはどのような分類が可能で、時代の流れと共にどのような変遷があったのか。
今回はこの二つを切り口にして、話を掘り下げてみた。

そうして見えてきた状況は
・既存のコミュニティの中には弱体化しているものがある。
・主体的に参加するようなコミュニティが特に若い世代に増えてきている。

「で、結局どうすればいいの?」

そんな疑問が飛んできそうだが、僕自身もまだよくわかっていないというのが正直なところ。
持続可能性をキーワードと捉え、誰もが安全・安心できる生活を営めることを第一に考えるなら、方向性は三つ。

(1)弱体化したコミュニティの機能を強化するためにはどうすればいいか?
(2)新しい参加型のコミュニティを既存のコミュニティと両立するためには何が必要か?
(3)コミュニティの恩恵に預かれず、個人でリスクに対抗することも難しい人が出てきたとしたら、社会としてどう対応すればよいのか?

特に僕は(2)に関心がある。これについて、「主体性」と「言語化」という言葉を紹介した。
就職活動に成功し、仕事とプライベート両方を充実させている人は、「主体性」があり「言語化」ができる人だ、というのが僕の実感としてある。
僕は元々教員志望だったが、教育への関心も最近はこの「言語化」の能力(?)の形成方法がメインになっていて、キャリア理論なんかにも手を出し始めた。
そんな人たちが増えれば、とりあえずは就職活動で悩み、挫折し、あきらめる学生は減るんじゃないか、そんなことを思っている。

(以下は参考文献)

コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来
コミュニティ 安全と自由の戦場
シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略<共有>からビジネスを生みだす新戦略
スローキャリア

連載記事まとめ

日本海に浮かぶ離島から(1/4)-秋元悠史
日本海に浮かぶ離島から(2/4)-秋元悠史
日本海に浮かぶ離島から(3/4)-秋元悠史
日本海に浮かぶ離島から(4/4)-秋元悠史
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