
@kamioka (前回の記事は
コチラ)
7.コミュニティの分類を図示して見えるもの(1)は生活における機能での分類、(2)はコミュニティの形成原理に関する分類、(3)はコミュニティの志向性や中心による分類とそれぞれ位置づけられる。
つまり、それぞれの分類は相反するものではなく、単に切り口が異なるだけだ。
ここでは特に(2)(3)の分類を2軸にしてコミュニティをマッピングしてみる。
(例外を捉え切れていない部分もあるが、そこはご了承いただきたい)

農村型コミュニティ:同質化、暗黙のルール、血縁や所属によるつながり、強制参加
都市型コミュニティ:個人の集まり、明文化されたルール、言語ベースのつながり、自由参加
地域型コミュニティ:地域・場所に基づく、空間を共有する
テーマ型コミュニティ:課題解決に基づく、目的を共有する
たとえば同じ「企業」であっても、「人の集まり方」は異なるため、いわゆるベンチャー企業や専門的なスキル要件を設定している企業などは農村型の傾向が弱いと考えられる。
WLAなどはバックグラウンドの異なる人たちが「秋田」というキーワードを共有していることから、都市型かつテーマ型のコミュニティに位置する。
こうして見ると、農村型コミュニティに多くの日本人が所属しているということが分かる。
都市型コミュニティ(グラフ右半分)にほとんど所属していない人もいるのではないだろうか。
8.属するコミュニティは人によってどう違うのか「
孤族」という現象を考える。
これに該当する人たちは、病気や高齢化によるリスクが他の人と比べて高くなるだろう。
ある人がこんなことを言っていた。
親しい友人が10人いたら、仕事がなくなっても友人の家を転々とすればとりあえず食べていける。
これこそ、セーフティネットじゃないか。
属するコミュニティによって、僕らは生活上のリスクを軽減したり、仕事・ビジネスや転職を有利に進めたりできる。
「所属」の農村型コミュニティと、「参加」の都市型コミュニティ。
定常型社会においては、この二つのタイプのコミュニティの両立やバランスを考えることが重要になる、と先に書いた。
では、実際に人はどのようにコミュニティに属していくのだろうか。
まず、多くの人はライフステージやキャリアに応じて(意図する・しないに関わらず)コミュニティを移動しながら一生を送ることになる。
農村型コミュニティには、おそらく多くの人が必然的に属することになるだろう。
義務教育やリタイア後の期間においては、居住地域でのコミュニティで過ごす時間が長くなる。
また、大学進学や就職の段階で地元に残る人たちは、それ以前に属していたコミュニティと引き続き関わる傾向が強いと考えられる。
時系列やキャリアの転機をきっかけに移行するコミュニティは、おそらく農村型コミュニテイが多いと思う。
都市型コミュニティの形成については、「人や情報へのアクセス」と「主体性」が鍵となると個人的には思っている。
都市部は人が集まっている分、特定のテーマや価値観を共有する人どうしでコミュニティを形成するのも地方ほど難しくはない。
しかし、ソーシャルメディアを活用できる人は、そうじゃない人たちよりも多様な出会いの機会を得ることができる(Yokotterは好例だ)。
・「既存の草野球チームに参加する」
・「草野球リーグで優勝を狙うために仲間と新チームを結成する」
では前者の方が気楽に参加できる。後者はそれなりにコミットメントが必要だ。
テーマ性や目的志向(「秋田を盛り上げたい」)が強いコミュニティほど、より主体性が求められる。
しかし、いずれも野球やスポーツへの興味・関心が大前提となる。「主体性」が発揮できないコミュニティに参加するというのは考えにくい。
僕としては、ほとんどの農村型コミュニティは「自動的に」所属できるものだと捉えている。
実際、ライフステージのどの点をとっても母校の同級生、会社の同僚や家族などのコミュニティに属していないという人は少ない。
つまり、どうやって都市型コミュニティに参加し、農村型コミュニティとバランスをとっていくかが僕の関心ごとだ。
都市型コミュニティを形成する二つの要素として「人や情報へのアクセス」と「主体性」を挙げた。
前者は個人を取り巻くインフラやリテラシー、スキルに依存する要素だが、僕が特に注目したのは、「主体性」だ。
「主体性」は、どのように形成されるものなのだろうか。また、「主体性」の現代社会においてどれだけ重要なものか。
最近では就職活動なんかでもよく求められるこの素養(?)をどう捉えればよいか、考えてみたい。
9.主体性とは、人と違うということ、言葉にするということ学生の就職活動を例にとって考えてみたい。
就職活動の業界では、面接の受け答えや志望理由・自己PRの書き方のマニュアル本が氾濫している。
マニュアルどおりの学生を見たら、多くの人はどう思うだろうか?
「主体性がない」と、きっと思うだろう。
逆に学生が、自ら考え動いた経験やその学生独自の夢や目標をきちんとアピールできれば、企業側は「主体性がある」と判断する。
みんなが使う言葉、世の中共通の考え方ではなく、その人自身の言葉、その人なりの考え方が語られるとき、そこに僕らは「主体性」の存在を認識する。
「主体性」があることを他人に示すためには、自分がみんなと違うということ、自分がユニークであることを示さなければならない。
また、他人に示すだけでなく、自分自身のモチベーションを高めるためにも、意義や意味、達成したいこと、目標を自分で考えるということが欠かせない。
「なんとなく周りに合わせて…」よりも、「おれはこれがやりたいんだ!」と思えることをやった方がいいに決まっている。
「自分探し」という言葉があるが、それだけ自分自身のやりたいこと、興味・関心を自覚することは難しい。
大学も偏差値で決める時代だ。「自分は経済学が学びたい!」と強く思い、「この領域を学ぶならこの大学だ」と進路を選んだ人がどれくらいいるだろうか。
大学進学後も「主体的に」講義を受け、教授に質問をし、本を読み、議論することができる人なんて、もっと少ないのが現状だ。
一人ひとり個性がある、とは僕も思ってはいるが、それを自覚するかどうかは別物だ。
みんなと一緒では「主体性がない」と言われるし、ぼんやりとした考えのままでは相手に伝えられる言葉にならない。
自分自身の価値観を理解し、アンテナを張りながら生活を遅れなければ、自分にぴったりなコミュニティと出会うこともままならないだろう。
自分は人と違う、ユニークであるということを言葉にし、表現する。これを僕はそのまま「言語化」と呼んでいる。
一人ひとりが本来持っているはずの個性とかそういうものを、「言語化」によって「主体性」として自覚し、相手に伝える。
そう考えると、「主体性」は「言語化」によって"発見"されるもの、と捉えることもできそうだ。
たとえばWLAに参加するとなると、いろんな人から質問攻めに会うだろう。
「わざわざ」参加するからにはそれなりの理由があるのだろう、と思うのがむしろ普通だ。
「なんで秋田が好きなの?」「秋田のどこが好きなの?」「どんなことをしてみたいの?」「将来は秋田に帰るの?帰らないの?」
もしその人が「なんとなく」くらいにしか思っていなかったら、無邪気に投げかけられる質問にはきっとうんざりすることになる。
逆にWLAの活動に積極的に参加したいと思える人なら、「良くぞ聞いてくれた!」と嬉しそうに答えてくれるはず(というのは言い過ぎ?)。
活動に対して「主体性」が持てないなら、楽しくないのは間違いない。
10.言語化が求められる時代主体性が求められる場面と言えば、なんと言っても「仕事」、特に「就職(採用)」の場面だ。
単に企業といっても、社風や制度、方針はそれぞれ異なるため、応募者と自社とがマッチしないと早期離職などお互いに不幸な結果が起こるのは目に見えている。
もちろんそれだけではない。主体性は"仕事ができる"人材の基本的な条件として認められているのはご存知の通り。
企業が主体性を確認するためには、応募者が自分の考えやこれまでの経験を振り返り、きちんと「言語化」することが求められる。
履歴書や面接では、言葉によって主体性があるということを証明しなければならないのだから、これは当然のことだ。
しかしここで気をつけなければならないのは、自分と相手の言葉の認識が必ずしも一致していない、ということだと僕は考えている。
「私は経済学部でした」という言葉だけでは、その人が本当に経済をしっかり勉強してきた方は判断できない。
実際に知識を確かめてみたり、それができなくてもどれくらい勉強したか、どのような卒論を書いたかを聞くことで初めて、その人がどれくらい経済を理解しているかわかる。
相手に理解してもらうためには、相手が理解できるような言葉で自分の経験や考え方、過去の行動を説明することが必要となる。
昔は「東大出身」というだけで採用される時代があったと聞く。
この時代に「言語化」、そして主体性が求められることはほとんどなかったのだと思う。
社会全体が「学歴」を暗黙の評価基準として判断していた、この時代はまさに農村型コミュニティの全盛期だったということだろう。
ところが、今や「うちの会社を受ける東大生なんてろくなやつがいないだろう」とばっさり切られてしまうような就職氷河期だ。
未だ学歴の影響は色濃く残っているが、高学歴であっても主体性を発揮できない人は採用されないのが実際のところとなっている。
都市型コミュニティへの参加にも主体性が必要となる。「なぜあなたはそのコミュニティに参加したのか?」
みんなが選ぶものではなく、「わざわざ」参加するようなものを選んだからには、何か特別な理由が必要だ、と周囲が判断するのも無理はない。
その人がこれまで出身はどこで、どの学校に行き、どの会社に勤めたのかは、そこまで重要にはならない。
これまで属してきたコミュニティうんぬんではなく、「あなた自身の価値観」が求められているのだ。
就職も、あるコミュニティから別のコミュニティへの参加することだと考えることができる。
「自分で選ぶ」「自分の価値観で決める」「自分の考えを言葉にできる」。
そんな人たちはこの定常型社会の中で生き生きと生活を営んでいる。Twitterを見ていてもそう思うことが多い。
一方でそれができず、弱体化した農村型コミュニティから抜け出せないまま、ジリ貧になっていく人がいる。
自分の子どもを自宅に放置して餓死させたり、都会のど真ん中で誰にも知られずに亡くなったり。
そういう構図が現代社会に存在することを、ふと僕は想像してしまう。
なんとなく、「主体性があるやつは勝ち組、ないやつは負け組」となっていないか。
「校則で決まっているから」「それが普通だから」「みんなそうやっているから」
学校や会社、あるいは友達関係でもなんとなく暗黙のルールに従っていた部分はあったはずなのに…。
「意識が高い」ことが褒められる世の中になった。
「プロフィール」づくりのために意識の高さや社会貢献への参加をアピールする人も出てきたくらいだ。
それもこれも「勝ち組」に入りたい人たちの焦りがもたらした行動だと考えたら、どうだろうか。
言語化は今の時代において、とても重要になってくる。
しかし、いきなりそんなことを求められても困る、という人も必ず出てくる。
これを読まれた方はどう考えるだろうか。
(続く…)→最終回は
「コミュニティはどのように変化してきたか」7/1(金)に掲載します。
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