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[アキタ朝大学コミュニティ研究室]日本海に浮かぶ離島から(2/4)-秋元悠史

秋元悠史(プロフィール)
@kamioka



(前回の記事はコチラ)

5.一冊の本との出会い

そんなことを考えていたときに、ある人からおすすめされたのがこちら。

コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来

僕のブログでもすでに何度か紹介しているが、この本が「コミュニティ」のささやかな探究の原点となっている。
本書では例えば、コミュニティについて3つの大きな分類を紹介しながら現代社会をうまく捉えようとしている。

(1)「生活のコミュニティ」と「生産のコミュニティ」
「farmer」と「family」は同じラテン語が語源であるという事実からも分かるとおり、昔は二つのコミュニティが一致していることがほとんどだった。
"家庭"と"会社"など生活、労働の場が区別されるようになったことからこうした分類が意味を持ち始めたと考えられる。

(2)「農村型コミュニティ」と「都市型コミュニティ」
農村型コミュニティはいわゆる日本的なコミュニティのイメージに近い。
都市型コミュニティは個人が独立してつながる、異なるコミュニティどうしがつながるという方法をとる一方で、
農村型コミュニティは逆にコミュニティ内部を同心円的に拡大させ、構成員を同質化させる傾向がある。

(3)「空間コミュニティ」と「時間コミュニティ」
空間コミュニティを地域コミュニティ、時間コミュニティをテーマコミュニティとそれぞれ呼ぶことも。
前者はコミュニティの形成において空間(地域)と密接に関連しており、コミュニティの構成員は同じ空間を共有する者どうしとなる。
「子ども」や「高齢者」などは、その地域に住むこと自体が生活やコミュニティ形成に及ぼす影響を強く受ける。
後者はNPOや社会企業など、社会的な課題解決などの目的・価値観を共有する者どうしがそのコミュニティの構成員となる。


これらの分類を紹介したのは、これによってうまく説明できることがあるからだ。
例えば(2)の分類に注目しながら、現代社会で起きている現象を説明してみると分かりやすい。

従来は「どこに住んでいるか」や「どの学校・会社に所属しているか」がその人の所属するコミュニティに直結していた。
趣味のゴルフも会社や取引先(=所属するコミュニティの内部・延長)が相手という人がきっと多かったんじゃないだろうか。
同心円的に広がる農村型コミュニティが強固だった時代は、一つのコミュニティの中で一生を終えることが特に問題にならなかった。

ところが、農村型コミュニティの規模は急速に縮小した、と著者は指摘する。「孤独死」という現象は、その端的な例でもある。
企業のあり方も変わってきている。経済・経営のグローバル化に伴って分業やアウトソーシングが進み、業務は専門化され、同じ部署内でコミュニケーションをとるので精一杯になっている場合もある。
コミュニティの強度の基盤となった終身雇用・年功序列も弱まる中で、成果主義の導入によって個人化が進行している企業もある。
このような状況がますます"当たり前"になる社会を、著者は「定常型社会」と表現している。

定常型社会においては、農村型コミュニティに依存することのリスクが表面化し、「異なる個人どうしでつながる」都市型コミュニティの存在感が増す。
単一のコミュニティの機能が弱まる中で、バックグラウンドの異なる個人どうしで補完しあったり、複数のコミュニティに積極的に所属したりするあり方は、WLAに参加するメンバーの姿と重なるものがある。
仕事においては自らのスキルを伸ばしながら組織の目的達成に力を注ぎながら、自己実現の場をそれ以外のコミュニティにも求め、お金にならなくても時間(と能力)を費やす。
著者は、農村型コミュニティと都市型コミュニティは互いに補完的である、と述べている。
僕としては、これまでの日本では中心的だった農村型コミュニティと社会構造の間に齟齬が生じ始めている現代においては、二つのコミュニティの両立(あるいはバランス)を考えることが重要になってくると考えている。

「地元」という共通のキーワードによって主体的に構成されたコミュニティの参加者たちは、定常型社会の先駆者と見るべきかもしれない(実際、みんな楽しそうなのだ)。
「プロボノ」と呼ばれる人たちも同様の分類ができそうだし、「ノマド」というあり方は「都市型コミュニティ」側に大きく振り切った姿と言える。

僕が「地元」の今を見つめなおす上で、この本に学んだことは大きい。
(新書の割に分厚く、かつ射程範囲が広いので、未だ咀嚼できていない部分も多いけれど)
地方においてもコミュニテイが崩壊しつつあると言われる時代。
「人と人とのつながりが希薄になった」とすぐさま片付けるのではなく、どこでそのような現象が起こり、どこで起きていないのかを探ることで、次の一手を考えることができる。
「今」と「昔」を比較して「昔は良かった…」と回想に浸るよりも、今目の前で起きている現象を捉え直し、現代社会において目指すべきコミュニティのあり方を模索する方がよっぽど前向きではないだろうか。


6.コミュニティとしてのWE LOVE AKITAの特徴を考える

WLAという現象は、世の中的に見ればまだまだ小さな動きであることは認めざるを得ない。
僕がmixi等で告知をしても、中高時代の同級生でWLAへの賛同を明確にしてくれた人はほんのわずかしかいない(単に知り合いが少ないからかもしれないが)。
WLA内でも、活動を広げ、継続するためにメンバーを増やそう、という動きがあったが、そう簡単にはいかなかった。
むしろ「田舎が嫌で秋田を飛び出し、首都圏に住んでいる人は多い」という定説を裏付けるような結果となっている。

WLAに参加するかどうかは「個人の自由」だ。この形成原理は都市型コミュニティの特徴と一致する。
秋田県民として生まれようが、恋人が中心的メンバーだろうが、その参加を強制されることはない。実際、秋田県民であることが必須条件とも思っていない。
この活動に主体的に参加し、メンバーどうしで協調をとりながら楽しむことができる人であれば、基本的に歓迎される。
WLAに時間やお金(交際費)といった相応のコストをかけたい個人が参加するべきだということがメンバーの共通認識としてある。
それだけの価値を感じない人、WLA以外に優先順位が高いものがある人が「わざわざ」参加するものではない。
参加者のニーズを満たすことよりも、秋田を盛り上げることが目的だから、当然かもしれないが。

そう、WLAは「わざわざ」参加するものだ。
所属するだけで効用が得られるものではない。WLAに参加するメリットを享受するためには、参加者の「主体性」が大前提となる。

もう少し踏み込んでみると、世の中的に共通の指標でWLAに参加するメリットを測れない、という言い方もできる。
たとえば会社の有志による野球クラブに参加することのメリットはわかりやすい。
「会社の有志による野球クラブ」がどんなものであれ、「野球ができる」、「運動ができる」、「会社の人と仲良くなれる」というメリットが得られそうだとなんとなくイメージできる。
WLAはそうなっていない。所属するだけでは活動は進まないし、秋田を盛り上げることはできない。そこにいるだけで楽しい場であることを保障しているわけでもない。
つまり、参加する個人が自分自身の基準で目的や効用を設定する必要がある。

一方、WLAに参加することは、「私は秋田が好きです」と表明することにつながる。
「わざわざ」参加する=主体性が求められる分、「参加する」こと自体が個人の立ち位置やライフスタイル、価値観のようなものとして捉えられるという側面もある。
僕も「何でそんなに秋田が好きなの?」「秋田といえば何がおすすめ?」「秋田弁しゃべってよ」とよく言われる。
さして熱心でもない人がこれだけ質問攻めされたら…うんざりするだろうということは目に見えている。

WLAは、所属よりも、主体的・能動的な参加がベースとなるコミュニティという説明が適切かもしれない。
「所属」か「参加」か。ここが農村型コミュニティと都市型コミュニティとの大きな違いではないか。

(続く…)→次回は「コミュニティの分類を図示して見えるもの」6/24(金)に掲載します。
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