「秋田のインフラと産業について思う」 ~上海最前線から~
皆さん、こんにちは。
私は後藤拓也と申します。
この度、アキタ朝大学の企画としてリレーコラムを出筆することになりました。
コラムの始めに簡単に自己紹介をさせて頂きたいと思います。
1978年2月、秋田市に生まれた後、県南の羽後町で育ち、高校卒業までは秋田県内に住んでいました。
東京都内で営業マンとしてビジネスキャリアをスタートさせた後は、マーケティング職としてビジネス経験を積んで参りました。
現在は上海で貿易商社に勤め、ここ上海で生活しております。

(後藤拓也さん)
このコラムは、同じく上海在住でリレーコラムを書かれている早川氏との出会いがきっかけでした。
私は仕事柄多くの日本商品の貿易・販売に携わってます。
先日、秋田産品を持参して早川氏にご訪問頂いたのが最初でした。
私は、上海で多くの地方物産を担当しながら、生まれ故郷の秋田産品とはまったく縁がありませんでした。
上海で初めて進出を考えている秋田の商品を見た時は、「やっと出会えたね」と、どこかの芸能人のような口説き文句を掛けたくなった。
その日、会議室には4名全員が30過ぎの男で、まったくロマンチックではなかったのだが(笑)。
秋田の商品が東北を越えて海を越えて、上海にあるということが、内心とても嬉しかった。
秋田を思い出す光景の一つが、幼少の頃、八橋球場のすぐ裏手が自宅だった。夏の甲子園予選だったのだろう。球場の歓声が日吉神社の脇の小さな公園に届いていた。
その小さな公園は、私の1番最初の小さなコミュニティーだった。近所の子供たちがみんな一緒に遊んでいた。
あの時の記憶はきっと一生忘れないだろう。
あれから28年。私は、いま上海にいる。
私が上海に来た目的を伝えておきたいと思います。
私は都内のマーケティング会社に勤務していた頃、某省庁の仕事を担当した事がありました。
日本に新たな産業を作るプロジェクトに研究員として参加していました。
その時に思ったのが、いったい、日本の将来のためにいくつ産業を作れば良いのだろうか?
私のような凡人に出来る事はもっと別のことではないかと。
景気の一時的な回復はあっても、長期的な国内需要の回復は見込めない。
外貨を稼がなければ日本を維持することは出来ない。
その結果が日本の商品を海外で売る事だった。
「そうだ!中国へ行こう!」
そう思った?のがきっかけでした。
そんなこんなで上海に来て、日本商品を貿易・マーケティング・販売の仕事をしています。
現場を知らずして物は売れない。それは日本にいた頃からのマーケッターとしての私の信念でもあったため、
消費者に最も近いBtoCの販売現場まで携わる仕事もしています。
とはいえ、私の仕事内容は最近では、何でも屋になっています。
貿易実務・コンサルタント・マーチャンダイザー・市場開発・商標登録や化粧品批准許可書の申請業務と、
多岐に渡ります。
そのような仕事柄、現在進行形の中国現場をこのコラムで紹介し、
秋田を思う方々に、外からの新鮮な価値観を届けてみたいと思ったためです。
現在の上海はおそらく、世界でもっとも競争が激しく、可能性も有り、世界中から優秀な人が集まっている。
そんな場所で働く秋田県人からビジネスの話でも如何かと。
生まれ育った秋田に何か貢献出来ることはないのだろうかと思います。
日本の地盤沈下の象徴になりつつある地方。秋田も間違いなく、その中に入っている。
地方の活性化とは何か。自分なりに答えを求めて行きたい。
以前、TVで東国原元知事が言っていた言葉を思い出す。
地方を元気にとは何か?
何をもって元気というのか?との問いに対して彼はこう答えた。
「今の日本は、今日より明日が良くなると思えないから元気がない」。
「今日よりも明日が、明日よりも明後日が、良くなる希望を持っている事が活力に繋がり元気の源になる」。
そのような事を言っていたのが記憶に残っている。
秋田の人で中国での販売に可能性を求めている方がいれば力になりたいと思っている。
でも、国内はダメだから中国に行けば成功するなど簡単な考えでは失敗すると思う。
日本市場は家電製品に代表される通り、日本では日本製品しか売れない世界でも特異な市場です。
(これも、もう10年もすれば海外商品が溢れてしまいそうな状況ではあるが。)
それが、プロダクトアウトの考えをメーカーも小売店も消費者も捨てられなくなっていった。
勿論、そのような考えでは、中国以外の海外でも失敗している。
我々日本人は自国の日本商品へ過大評価がある。商売の基本である、マーケットインの考えを持って本気で取り組む事が海外で成功する最低限必要なことだと思っている。
簡単に言えば、消費者が欲しいと思うものを作って売る。
また、商品を消費者が欲しいと思わせる。
商売の基本である、その単純なことが一番難しく、日本、そして地方が、秋田が、出来ていないことなのかもしれない。
大手企業でなくても、子回りのきく中小企業にでもチャンスはある。
現在の上海についてレポートをしようと思う。
東北の震災以降、上海でも日本食品を扱う業者が大打撃なのは言うまでもない。
震災以降、よく思うのが全ての人が生きるために日々どこかで確実に戦っている。
それは、自分自身かもしれないし色々あるでしょう。
しかし、立ち止まって考える事も重要だけど、1歩踏み出さなければ、何も進まない現実がそこにはある。
時間も市場も世界も待ってはくれない。そして、それらは思ったより残酷です。
私たち、日本食品を扱う先駆者と言われる会社は、上海で5年掛けて日本食品の浸透のため活動してきた。
食は、その国、その地方の文化そのものです。まして、中国4000年の食文化に誇りを持っている中国人に対して、いかに日本食品を販売して行くか。今まで無くても構わない海外の食品を広め、安価な現地中国商品との価格差を理解してもらい販売する。血の滲むような努力だった。
しかし、その努力で売場に置けるようになった、日本食品が今消え始めている。
ひょっとしたら、このコラムを書いている23時、どこかの閉店後の店内の棚から日本商品がまた一つ消えているのかもしれない。
ここ上海では、日本食品は他の国より一足先に一定のブランドを築き、他の国が日本の後を追随している。
だが、この震災後大きな分岐点に立たされている。
フランス・韓国・オーストラリア・ニュージーランド、そして中国現地メーカーなどが、これはチャンスとばかり凄い攻勢で日本の持っていたシェアを奪い始めている。
今、重要なのは、売場から日本商品を減らさない事なのだ。
一度売場から消えてしまうと、取り戻すには並大抵の努力では取り戻せない。
売れるか売れないかは、今はもはや重要ではない。とにかく日本商品を少しでも減らさないでこの一番辛い時期を耐えることが重要になっている。
その後ろ盾であるはず日本側のサポートは今の所なにもない。日本国が発行する放射線検査証明も体制が整わず貿易さえ難しい状況だ。各社、もう少しで在庫は完全に無くなる。
上海の市場スピードは東京の3倍と言われている。
東京で働いていた私からすれば、東京の市場スピードはとても早いはずだったと思うが、
その東京のスピードに合わせているとまったく仕事にならないぐらい上海の市場は早い。
この日本の状態がこのまま続くようだと、風評被害が落ち着いた後には、取り返しの付かない悲しい現実が待っているかもしれない。
今年の夏以降から来年12月ぐらいまで、間違いなく食品を扱う日本企業にとっては、勝負の年になる。
そして、まだ上海に進出していない日本食品にとっては、最後の大きなチャンスになると思っている。
クラッシュ&ビルドが今の上海の食品市場の現状です。
東北の他県は、これまで中国で何かしらの成果を上げている。
しかし、この震災でこれまでの努力が実を結べなくなるとしたら悲しい。
中国およびEUなどが日本食品への12都県の輸入禁止措置があり、隣の山形もその中に入っている。
東北で実質動けるのは秋田・青森しかない。使える港も秋田にはある。空港もある。
国が作ったインフラを本当に有効活用するのは、我々民間で活動する者たちなのです。
東北の中国進出に秋田が必要な場所になると確信している。
貿易をする側からすれば、そのインフラがもったいなく感じる。
秋田が東北全体をけん引するような役割で居て欲しいという願いも含まれているかもしれない。
私の最初のコラムは、トヨタグループの「開祖」となる豊田佐吉の言葉で締めたいと思う。
大正10年に上海に進出する際に、中国進出に反対した幹部に向かってこう言った。
「障子をあけて見よ、世界は広いぞ」
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